Formless Star, The Beginner's Guide, Sexy Hiking, Dujanah
作者が語りかけてくる
Formless Star
良かった。めちゃくちゃシンプルで嫌味さの少ないMOONとかU.F.O.みたいな感じ。一番好きな"Animal"は「LIGHTHORSE」です。なんか、ただ水辺に突っ立ってるだけなのが良かった。
どこかで見たことある感じの絵だなとおもったら Deltarune とかのキャラデザもやっている人らしい。Deltarune やったことないのに Deltarune ってこういう感じな気がするというのがなぜか植え付けられている。変だけど馴染みある感じというか、すでに知っているレベルの奇妙さというか、子供のころに見た謎の教育番組の雰囲気を思い出すのかもしれない。なんとなく、育ってきた環境とか時代がすごく近い気がする。
奇妙な"Animal"だらけの星の創造主であるShapeから最後に感謝と温かみのある言葉を掛けられる。ラファティの『スナッフルズ』では、奇妙な星の調査で訪れた人間たちができの悪い世界を見て嘲笑したのに怒った創造主に皆殺しにされたのとちょうど逆の展開だった。
The Beginner's Guide
ちょっと調べようと思ってゲームのタイトルで検索したら、ゴリゴリのリアクションYouTuberみたいなチャンネルがたくさんヒットして良かった。
このゲームの語り手のDaveyはあくまで作品内の存在だけど、実際の作者のDavey自身も、Stanley Parable が注目を集めた結果、精神的に参るような出来事が多かったとブログに書いていたのもあり、作者本人の経験に基づいて作られた話として解釈される可能性がある(まあ、だいたいの作品には作者の経験に基づいている部分があるだろうけど)。
そんな半自伝的な捉えられ方をされるかもしれない作品に、作品から作者の性格や生活を「診断」することが招いた大失敗をオチに持ってくるのは、教訓じみすぎているようにも感じて、なんかちょっと自分が攻められているようにも感じた。
自分も一方通行な人間関係に人恋しさを紛らわせようとしてしまう傾向があるので修正しないといけないよなと思った矢先に、Daveyは人のゲームを勝手にSteamで販売するという、ちょっと喧嘩別れしたとかいうレベルではないやばいことを現在進行形でやっていることがわかる。信頼できない語り手にまんまと誘導されるサイコロジカルホラーのような展開は衝撃的で、「教訓」的な内容とかどうでもよくなってしまった。
ただ、Daveyのような性質を持った人間に対して突き放して終わりではなく、こういう性質って本人が意識して制御できるのか?という切実な思いがDavey自身から吐露されるのをプレイヤーは聞く。ゲーム開発者から見たら、言ってしまえば好ましくないこの種の人間に対して寄り添う、というか本気でロールプレイをしてみせているように感じた。
そうしたDaveyの「本音」を聞いた結果、一周目はDaveyのガイドに従ってCodaの精神を分析していたプレイヤーが、その大失敗を直前に見ているにもかかわらず、二週目はDaveyの分析を自ら始めてしまいがちなのも面白かった。
- ジョージ秋山の『告白』を思い出した。
Sexy Hiking
作品から作者を知ろうとすることの無礼さとか、そんなのをあざ笑うかのようにクリア後に作者が顔出しでプレイヤーを煽りまくってくる。
最後だけよくわからなかったのでバグみたいな方法でクリアしてしまったが、それ以外は割と遊べる感じだった。
壺の元ネタになっていることは有名だけど、なんとなく壺よりやってて気安かったのは、誰もやってないから比較されないというのもあるだろうけど、これくらいの人間の範囲が自分にちょうどよいのかもしれない。
Dujanah
- Catharsis
- Existentialism
- Identity
- The burden of heroism(?)
この4つがこのゲーム全体に根差すテーマらしい、ゲーム冒頭の動画で作者自身がそう言っていたので間違いない。5つあるらしいがあと一つが見つからなかった。この冒頭の動画自体は冗談だろうけど、ゲーム中にもランダム要素がいくつかちりばめられていることの示唆になっているのかもしれない。
まだこのゲームについてわからないことばかりで、正直特に書けることはないけど、こういう一見して理解できないものを見たい時がある。
『Judero』をやったときも思ったんだけど、このゲームの表現が技術的な問題のせいでそう見えているのか、それをあえて利用しているのか、はっきりしないせいで受ける印象について考えていた。例えば、荒いテクスチャやアニメーションだったり、作者が雑な変装で出演していたり、そういうある時代のインターネットの雰囲気を表現として利用していることに自分は無防備になってしまう。まだこういう表現に「自分たちの時代らしさ」を(ずっと他人でしかなかったのに)追いかけている自分に気づかされて、嫌と諦めの中間くらいの気持ちになる。