FAITH: The Unholy Trinity

びっくりハウス

FAITH: The Unholy Trinity
FAITH: The Unholy Trinity on Steam
What you are about to do has not been approved by the Vatican. As a young priest, struggle against demons, cultists, and your own weakening faith in this pixel horror game inspired by the era of classic 8-bit gaming and the "Satanic Panic" of the 1980s.

プレイヤーが悪魔と戦うかどうかがそのまま、悪魔が存在するというジョンの認識を強固にする、という第3章での選択が印象的だった。

第3章で即帰宅を繰り返した場合、プレイヤーは一切悪魔と戦わずにエンディングを迎える。ここでは、悪魔は完全にジョンの妄想として扱われる。しかし、3章以外も含むその他の場合では、プレイヤーは結構必死になって悪魔と戦う羽目になる。最後まで「ここは悪魔がいる方のアメリカなんだ」とプレイヤーが信じることを否定する要素はない。

プレイヤーがゲームを通じて悪魔と戦ったのは事実であり、それはジョンにとってもそうだったかもしれない。それでもプレイヤーが妄想だと断じるのだとしたらその理由はなにか。それは、実際の経験より、科学的に正しそうな資料の内容を優先しているからだろうか。妥当な理由だが、結構それって難しいことをしてるんじゃないか、とも思う。そもそも、ゲーム中は終始俯瞰視点なのに、操作キャラクターからみた視点が反映されて歪められていると思う方が不自然な気もする。

ジョンの妄想と現実の境目をプレイヤーが探ろうとする前提として、そもそもゲーム内には客観的に正しいものだけが描かれているわけではない、という認識が必要になる。つまり、どの時点でプレイヤーは、「ここに描かれているのは操作キャラクターから見た視点」だと考えるようになるのか。それが、このゲームをやった後もずっと気になっている。「信頼できない語り手」とか「モダリティ」とかが関連してそう。Semioticsとかちゃんと知っておいた方が楽しそうな気がするけど入門書を眺めて「なげー」ってなってあんまちゃんと読めてない。

自分がこのゲームをやってどの時点で語り手の信頼性が揺らいだのか、という話をすると、まず、自分は悪魔憑きによる陰謀論がモラルパニックを引き起こした前例のある世界で暮らしているので、自分と同じ現実に棲む人間がわざわざ悪魔が存在する世界を描く理由を探そうとしてしまう。そして、自分の棲む世界にとってこのゲーム中の「悪魔」が何を表しているのか、などの意味を探そうとしてしまうから、表面的に悪魔の存在を信じることが難しい(そりゃ悪魔がいたほうが面白いことが起こるからに決まってるだろ、という理由もあるだろうけど)。

悪魔の存在について、このゲームでは起動シーケンスのコンソール画面に「UNHOLY TRINITY SUMMONED」などと表示されていたり、ゲーム自体が呪われているような表現がある。これ自体が歪められているので、どの視点からでも悪魔は見える。「どうせジョンの妄想だろう」という認識から「もしかして、本当にここには悪魔がいるのかも」とプレイヤーに思わせようとしている。

今どき、80年代の悪魔崇拝カルトに関する陰謀論をモチーフにした作品で、本当に大規模で組織的な悪魔崇拝者のネットワークが病院や保育園を運営していたら没入感が削がれる気がするけど、これ自体が悪魔の存在を信じる者によってつくられたソフトなんだとすることで、それを補填しているように感じた。

  • 全然関係ないけど『女神転生』をプレイして、「このゲームの悪魔は主人公たちが見た幻覚に過ぎない」という人っているんだろうか。あれはSFっぽい理由付けがされてた気がするからまた違うのかもしれないけど。

80年代のSatanic Panicを題材にした作品で、それを少し離れたところから見ている創作の前例として今さら『冥闇』を読んだ。似たようなモチーフがより具体的に書かれていて雰囲気を理解するのに役に立った。『冥闇』は、一家惨殺事件については完全に被害者の立場からの視点だし、最後の方、妙にハイテンポで全部解決してしまうけど。

比較すると、『FAITH』ではSatanic Panic関連の有名な事件(マクマーティン保育園やウェストメンフィススリーなど)についてほとんど語られることはない。周知の事実として扱っていると考えるのが自然だが、あるいはこのゲームにとって都合の悪い事実として隠している気がした。それが冒頭の不穏な起動シーケンスにつながっていて、真実や歴史に対する冒涜的な意味が込められているのかもしれない。そして、実際にそれをしたのは現実では悪魔崇拝者ではなかった。

それこそ『I have the body of a pig』のような呪われた一時資料風の様相を呈しているのは、ゲームというメディアの特徴を生かしている(もしくは、もうそういうものとしてしか自分がゲームを見れなくなっている)気がした。


翻訳者のashi_yuriさんの記事によって、正直乗り遅れた感のあるこのゲームの当時の盛り上がりっぷりを再確認できた。それぞれのエンディングについて納得感のある考察がありとても参考になった。

また、Henrique Lageさんのこの記事も、開発の経緯や各章のあらすじやインスパイア元について、全編流して考察されているのでとてもありがたかった。