パラノマサイト FILE23 本所七不思議

ナカゴっさん

パラノマサイト FILE23 本所七不思議
PARANORMASIGHT: The Seven Mysteries of Honjo on Steam
How far would you go to bring someone back from the dead? Discover the depths that some will go to in this horror-adventure game.

最初の興家くんのルートがが面白すぎて、全部この調子で進んだらすごいぞ、と思った。思ったけど、そうだったらこんな売れてないだろうなとも思った。それぞれのキャラで呪殺バトルやって終わりだったら、自分は何をやらされてるんだ?ってなるだろうし。

興家くんパート(序章)のすごいところ:

  • 実際何の分岐もないのに、すごく分岐がありそう。
  • 「立ち去ろうとする相手を殺すことができる」という能力がすごい。相手が去っていく間に殺すか見逃すかを判断しないといけないので、左上の呪詛行使ボタンの演出と合わさって、ほぼ一本道のテキストアドベンチャーなのにすごい焦る。
  • 背を向けて去っていく敵を追いかけて殺すとき、なぜかわからないけど、『Dishonored』とかで背後からステルスキルとかをした時の感覚を思い出した。テキストアドベンチャーゲームなのに。
  • でもテキストアドベンチャーゲームだからこそ、次のクリックで場面が変わってしまうかも、という緊張感がある(何それ?)。これは、待ち伏せしていた敵がまんまとやってきて「この機会で殺すしかない」となる感覚に似ている。
  • 興家くんルート進んでいるときはストーリーチャートが解放前なので、「なんか勢いで殺しちゃったけど戻ってやり直すの面倒」という気持ちが、一方向に突き抜けたルートを選ばせるのはすごいけど、そんなことしていいの?って気持ちもある。

興家くんと一緒にやった呪殺バトルが面白すぎて、その後の探偵・推理パートというか、一般的なミステリーノベルゲーム体験が続く部分は割と落ち着いた印象だった。呪殺バトルのひりつく感じはマダムとあやめの対峙シーンまでほぼ出てこない。それもすぐ終わってしまって、「最後にもう一度大呪殺バトルがあるのでは」という期待がちょっと外れてしまった感じもある。でも、あやめ戦の時点でだいぶ疲れていたし、ストーリーチャートもすでに解放済みなので、あそこからまた呪殺トーナメントが始まっても、そこまでの緊張感はなかったかもしれない。

序章ではこれから登場する人物や要素(資料とかシステムメッセージなどの仕組みも含めて)もほぼ全部登場している。自分の感覚の話なんですけど、情報量や選択のストレスなどの負荷が冒頭に集中していたので、その勢いを使って他のキャラクターのルートの続きを読み進めるのが楽になった気がする。


結末となった津詰親子の話も含めて、ゲーム全体を通して「罪の清算/過去の否定」について語っていた場面が多い気がした(殺人事件が起きてるミステリー作品は大抵そうかもしれないけど)。

呪主のほとんどは、「蘇りの秘術」を過去の罪(あるいは罪悪感とか罪の意識とか、そういうこと)を清算(あるいは否定)するために使おうとするなか、あやめの意図は過去とは無関係に見える。しかし、後半の春恵との問答や津詰との最期の会話で、自分の存在そのものや生まれてきたことを否定していたように読み取れる。そして、エンディング「灯野あやめの本懐」では実際に自分の肉体を依り代に葛飾北斎を蘇らせ消息を絶つ。

だから、その「元凶」である津詰警部があやめにバチボコに殺されるシーンが結末になっているのは、議論の内容に同意できるかは置いといて、流れとしては自然に見える。おっさんは放置してきた罪に対して死を以て清算するしかない。そして父親を殺したことが新たな罪の意識としてあやめに植え付けられ、同時にそれは呪いによる「被害」でもあると津詰は言う。

罪の原因がコントロールできない環境による被害であろうと、正しい清算方法を考えて向き合っていかなければならないという結論になるなら、呪いのある世界もない世界も変わらないように見える。ただ、呪いがなくなった世界のエピローグでは、津詰親子の清算が後回しにされ、より開かれた終わりが書かれている。

なんとなく、人間的(個人の性格に起因する)悲劇と存在論的(環境や人間が相互に影響しあった結果?みたいな?)悲劇の境界を、呪いのような超常現象を持ち出して曖昧にする伝統的な手法があって、それを真面目にやっている、ような気がした。「案内人」に語り掛けられる形式をとっているのもあって、坊さんの説法みたいで、そういうのも含めたなつかしさなのかもしれない。というか、世にも奇妙な物語のタモリ?タモリって昭和?

余談だけど、親に対して正論を言う女子大生概念に対しての自分の耐性の無さに気づいた。そりゃそんなこと若者に言わせられたら気持ちいいよなと思ってしまう。現実は若者が中年にそんなこと言ってくれるわけないじゃん、みんな黙って去っていくだけ、そんな役割を大学生に負わせないで、中年も正論言わなきゃだめだよってなる。いや、正論言ってる中年って結構怖いかもな。実際、物語中に正論を言わせる装置として使えるのは若者(か老人)しかないのかも。


「案内人」とカラーテレビを見ている「何者か」は誰か?(そもそもこの空間は何?)という大きい謎が最初に提示されているので、それぞれのキャラのルートを進めたり別エンドを集めたりといった作業にも意味が生まれる……かどうかは人次第かもしれないけど、どっかで繋げてくれるんだろうなという信頼はあった。そういう信頼感は、途中の推理パートの懇切丁寧誘導のおかげで生まれていたのかもしれない。丁寧すぎて、もう無理やり思いつかされているんじゃないかという気持ちにもなるけど、そこまで押し付けがましくならずに、忘れてしまったりもせずに情報を繰り返し提示する技術がすごい。

他にも、大き目の謎が解けて大量の情報が開示されたとき、ちょっと冷静になって情報をまとめさせようと促すタイミングで資料の更新ダイアログが表示されたり、読むペースをコントロールさせる技術もすごい。ふと思ったんだけど、資料を全く見ずに進める忙し目の人でも推理できるようになっていたりするんだろうか。そういう人は総当たりで選んで進めればいいやと思うだろうからあまり関係ないか。

興家パートで逃げようとする相手を見守るときもそうだけど、文字送りのためにボタンを押すのも「ゲーム」というかインタラクティブ性だという自覚があり、そのタイミングや頻度をコントロールしようとしている。そのうえで、それをうまくやっている珍しいゲームだと思う。

エピローグではあくまで解呪を、人間の行動に強烈な影響を与える問題を一つつぶしただけと書かれていると思った。それにより、呪いという超常現象を、より現実的な問題と関連付けしやすくなる。ゲームを終えて現実に戻るところまで丁寧に誘導されている感じがする。

エリア中に全然無駄な要素のないよくできたパズルゲームと同じく、「この○○って名前がわざわざ出てきたってことは謎に関係しているはず」というメタ情報をもとに推理できる。すごいんだけど、例えばパズルだったら枝切りしていたら解けてしまったみたいな、「これ解ったって言っていいのかな?」みたいな気分にもなる。でも、そういうのが嫌だって言うなら『The Case of Golden Idol』みたいな仕組みのゲームをするしかないのかも。

  • 印象に残った怖いシーンで言うと、逆崎殺すときの新石がやばすぎて、別世界線だけどコミカライズで新石が出てきたときも冷静でいられなかった。
  • 正直物語と現実をあまり区別できずに生きているから「メタフィクション」って言われてもあんまわからない感じがある。枠物語とどう違うのか、どこまで「メタ」な要素があればメタフィクションだって言われるのかがわかってない。そもそも「メタな要素」ってなにってとこからわかってない。なんとなく、このゲームでは自己批評的な視点を取るための意図はなく、案内人が言っていたように、解呪の謎解きをプレイヤーに意識させるために「これはフィクションです」と言っているような気がした。でも、ゲームのなかにゲーム自身の説明書や攻略本が埋め込まれていると考えればメタ的な機能を持っていると言える……ということ……?なんか不安になってきた。
  • そういえばやってるときあんまり「昭和」っぽさを感じなかったのは、全然知らない無関係のおっさんやおばさんが唐突に話しかけてきてそのまま去っていったりしないからだと思った。いや、東京だとそもそもそういうのないのかもしれない。